服部 正志 Masashi Hattori
- 神明ビルスペース閉廊企画展 -
『ありがとう◯YOD Gallery◯うとがりあ』
2022年12月17日(土) - 2023年1月14日(土)
開廊時間:13:00 - 19:00
休館日:日曜、2022年12月29日(木) - 2023年1月3日(火)
この度、YOD Galleryでは服部正志 個展『ありがとう◯YOD Gallery◯うとがりあ』を開催いたします。
服部正志は、「ヒト」の普遍性を追究することをテーマに、「ヒト」をモチーフとしたさまざまな立体作品を発表してきました。
本展覧会では、YOD Galleryの神明ビルスペース閉廊を記念し、2008年の開廊時より様々な企画展を開催してきたギャラリー空間そのものを素材と捉えた展示を行います。木版画の技法を用いて、壁面一面を版木とし、彫り、和紙に摺るという行為を通して、服部が開廊当時よりテーマの一つとしてきた「ありがとう」を作品にし、空間全体を変容させます。
建物としての歴史、そして沢山の人々の記憶の刻まれた空間。その隅々まで、見て、触って、新たな発見に期待しながら、15年分の「ありがとう」を表現する本展。展示空間でありながら制作現場となるギャラリーを、歴史に幕を閉じるその最後の瞬間まで、共に見届けていただけたら幸いです。
会期前半【12月17日(土)-28日(水)】は壁面の彫り、後半【1月4日(水)-14日(土)】は摺り、
そして完成展示までの制作過程を会期を通し公開いたします。
この機会に、ぜひご高覧ください。
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服部正志の壁と木に対する試みについて
(文=檜山 真有)
アートの現場において壁ほど繊細かつ粗雑に扱われるものはなく、世界中にあるどのような種類の壁の中でもギャラリーや美術館の壁の美意識は、作品がかけられる瞬間と、作品が外された瞬間で大きく変わる。ホワイトキューブというのは、壁という建築物を透明にする手段であると同時に、現状復帰が最も容易い状態でもある。絵画を展示するときに開ける穴をパテで埋めたり、壁に直接描かれた絵画を次の展示のために白く塗りつぶすことで壁面は徐々に分厚くなってゆく。それはあくまで作品の真正性を担保させる基準であり、壁画などを除けば、壁の美しさと作品の美しさは本質的には関係はないはずだ。では、服部正志の試みはどうだろうか。
彼はギャラリーの壁面全体を版木とし、「ありがとう」という文字を木版画で制作する。会場であるYOD Galleryはビルの取り壊しが決まっており、最後の展示を手がけた彼はまさしく会場をどのようにしてもよかった。およそ1ヶ月の展示期間内の前半を彫りの作業、後半を刷りの作業とし、最終日にギャラリーの外を飛び出し、刷り出した版画をギャラリー前に掲出した。つまり、本展は普段彼が発表するような作品での展覧会ではなく、彼が会場の壁に施す様子や出来事を鑑賞者が目撃するパフォーマティブの側面が強い形態での展覧会であった。そこで私たちが目撃するのは、刻一刻と変わる風景とそれに向き合う汗だくの作家である。刻一刻と変化するといっても、そもそも展覧会の初日に反転された「ありがとう」という文字が彫りのガイドラインとして描かれている異質な風景からスタートしている。その風景はふちどられた文字の内側が彫られることにより、白く塗られた壁から地である木地が透けて見えるようになる。さらに、それが刷りのために塗られると白壁が黒壁へ反転する。また、刷り作業になると書き初め用の半紙を黒いインクで塗られた壁に貼り付けるため、ひととき一部分が白く戻る。そういったある種シュールな風景が繰り返されることによって、作品は完成へ近づき、会期は終了へ向かっていく。
確かに彼は版画の手法で、制作・展示を行ったが、巨大な版画を彫る作家と壁面のレリーフを手がける彫刻家の違いは、出来上がるもののためにモチーフをあらかじめ反転させる以外にない。それほどまでに本展は「木版画」という言葉で想起させる素朴さとはかけ離れたダイナミックさを持っていた。そう、なぜ版画であったのか。この問いについては服部正志という作家自身を紐解かなくてはならない。
服部は今も作家活動の傍ら、教育現場にて美術を子どもらに教えている。ゆえに、彼の他の作品にも表れているとおり、身の回りにあるものを素材としていることが多い。また、彼の作品によって鑑賞者に与えられる「気づき」は、ささやかなものであろうと、本作のように大掛かりなものであろうとも、いつも物事の見方のスケール感を操作することは単純な仕掛けで可能であるというものなのである。
学生時代は彫刻を専攻していた彼が版画という方法を選択したのは、もちろん版画が学校教育の場で慣れ親しんできたものであるからというのは間違いない。版画を特徴付ける性質の一つに、複製が可能だというものがある。それは、大衆の心をあつめて、動かすメディアや運動にも大きく寄与してきた。それゆえに、反転した図像を彫るという難しさを乗り越えてでも、我々は初等教育で版画を学ぶのだ。
反転した文字で「ありがとう」と壁面に描かれているのは、壁面が版木になるからなのだが、漫画文字が時々キャラクターに干渉するように、文字が壁にそのままのめり込んだイメージでもある。なぜ、「ありがとう」なのか。それは服部の別名というかサインだからである。ありがとうという魔法の言葉は、場を収め、人の心を和ませ、物事を円滑に進めてくれる。とはいえ、その言葉の本来の意味「あり+がたし」からは脱臼している。そういった言葉に自分の存在を潜ませ、過剰な感謝をその場に溢れさし、その無益な過剰さで本来のありがたさを感じさせる前に自己としてのありがとうを思い浮かべさす。その時のありがとうと我々の知るありがとうは意味が乖離する。表音文字としてのひらがな五文字はその乖離した意味を含めて一つの言葉へ収まっている。それを彫る身体と、刷る身体。彫ったものを押し付け、反転した文字をさらに反転させて元に戻して正しいものにする。
本展の会場であるギャラリーも木でできた壁である。しかし、そのことを忘れさせるのは、白く塗られているという機能的な側面というよりも、そこが「ホワイトキューブ」であるという概念的な側面があるからだ。壁を彫刻刀で掘るガリガリという音はおそらく服部が職務中に聴いている子供たちの作る木版画を何倍も増幅させたものであろう。この音源の増幅により、服部の身体がより強調され、壁を彫るという行為の不自然さが何となくの収まりを見せるのだ。結果として一つの道筋を見せ、収まってゆくが、その過程に矛盾や葛藤があり、紆余曲折と取捨選択がこの白い壁のように何層にも折り重なっている。私たちは普段であれば、その表層を観る他にないのだが、彼はそれをむき出しにしようと試みたのだ。